中世のバサラ武士、佐々木道誉ゆかりの丸亀城

日本一の石垣で有名な名城とも言われる丸亀城は、現存十二天守の中で一番小さな天守を持つ日本百名城にも選ばれています。「扇の勾配」と呼ばれる石垣が山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60mの規模で、三の丸石垣だけでも一番高い部分が22mあるようです。現存天守でもっとも小規模ながら、本丸にある御三階櫓は丸亀城は1615年の「一国一城令」により破却の危機にさらされますが、当時の藩主である生駒正俊が要所要所を樹木で覆い隠して立ち入りを制限し、城を破却から守ったと伝わります。後に山崎氏、京極氏が入封し、城の修築を行われます。現在の天守(御三階櫓)や石垣は京極氏の時代に完成されたようです。

お堀からの丸亀城

標高約66mの亀山に築かれた平山城で、別名亀山城と呼ばれています。本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があり、東西約540m・南北約460mのうち内堀内の204,756平方メートルが史跡範囲です。「石の城」と形容される丸亀城は石垣の名城として全国的に有名です。大手門から見上げる夕暮れの天守はちんまいながらも威厳にがあり、心が和みます。400年の時を経た今日でも決して色あせることなく、自然と調和した独自の様式美をはっきり現在に残しています。(公財)日本城郭協会が選定した「日本100名城」にも選ばれ、花見や散歩など市民の憩いの場として親しまれています。

本丸の現存木造天守

山上の最高所が本丸です。本丸には、天守のほかに隅櫓・渡櫓・土塀が石垣上に巡っていました。礎石、排水路も一部復元しています。高さが約15m程あり、三重三階の造りで、全国に12しか残っていない木造天守の1つです。四国に残る木造天守の中で、最も古い1660年に完成しました。唐破風や千鳥破風を巧みに配置し、北側には石落しや素木の格子を付け、意匠を凝らしています。天守の入場は有料(’24年時は大人200円)です。 讃岐富士を正面に見れる月見櫓からは風光明媚な景観が楽しめます。

本丸西側の石垣

見返り坂を登りきると二の丸と三の丸に、三の丸南側・搦手口は山崎時代の大手とか、ハバキ石垣はサヤ石垣とも呼ばれる石垣が見どころです。石垣が膨らんだ箇所が崩れないように外側から押さえて保護する役割があるようです。
ハバキ石垣も山崎氏時代に築かれたようで、建物が建っているので石垣を解体修理をせず、ハバキ石垣を築き石垣保護をされたと思います。石垣が有名な丸亀城は「石垣の名城」と言われ、城郭石垣を築く技術が最高水準?江戸時代初期に作られ、優れた技術の石垣を見ることができます。特に丸亀城の主要な石垣は、高くて美しい曲線が特長です。

高石垣と算木積

丸亀城三の丸は高石垣で築かれ北側の石垣は、丸亀城の石垣の中で最も高く、20m以上の城壁が続きます。隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で、「扇の勾配」と呼ばれています。

石垣の隅角部(出隅)の石垣は算木積みと呼ばれる積み方です。角石は長方体の石を用い、長い面を大面、短い面を小面といい、大面と小面を交互に組み合わせ小面の角石の横には角脇石を配することで、より強固な積み方となり、美しい勾配の高石垣を築けるようになったようです。

大手二の門

一の門と同時に建てられた、高麗門形式の門です。大手とはお城の正面のことを指し、追手とも言われるようです。大手二の門は丸亀城の顔にふさわしく、石垣に使用される石は大きく、ノミの跡も美しく仕上げられています。大手枡形は城の正面玄関であり、鏡石と呼ばれる2mを超える大きな石が用いられています。鏡石は大手枡形などの城の重要な箇所に魅せる石垣として用いられたようです。

江戸時代からの現存建物の太鼓門とも呼ばれた大手一ノ門は、大手二ノ門、天守と共に国の重要文化財に指定です。大手一ノ門は内部が無料公開されていて、備え付けの布草履に履き替えて見学が可能、攻め寄せる敵を撃退する「石落とし」や、鯱なども展示されてました。

玄関先御門から見る天守

京極氏屋敷の表門にあたる旧藩主居館だった玄関先御門は、「御殿表門」とも呼ばれ、江戸時代初期に建てられました。お城の門としては珍しい薬医門形式で、屋根越しに見える天守との調和も素晴らしい。高々と積まれた石垣日本一高い丸亀城は、お堀から天守まで、総高60mにも及ぶようです。その石垣の上に、日本一小さな天守がちんまりと乗っている感じです。

アクセス

四国に渡り、電車の利用ですと予讃線のJR丸亀駅から徒歩15分ほどで丸亀城跡の城門に到着します。城跡辺りにはコンビニやお好み焼屋さんも、30分程歩けばうどん屋も有って飲食物には困らないと思います。丸亀城跡に来られる方は、他の観光地にも寄られる方が多いです。高松城(JR高松駅下車)や金比羅さん(JR金刀比羅駅下車)へのアクセスも電車ですと丸亀を拠点にすれば便利だと思います。

国宝犬山城跡の必見は木造天守

犬山城は愛知・岐阜の境目を流れる木曽川に沿って、古くから尾張と美濃の防衛の要所として重要な役割を担っていました。現存天守では最も古い木造天守の建築物で、室町時代の1537年に織田信長の叔父・信康が築城し、唯一現存する天守は戦国期から江戸初期までに建造された現存12天守の一つです。国宝天守5城のうちの一つでもあり、貴重な歴史的建造物でお城フアンに人気があります。

国宝犬山城

北方に木曽川が流れる犬山城は、南方からの入場になります。犬山城の木造天守は、現存天守の中でも最も古いと云われて1537年に建てられて以来、数度の改良を重ねながら、江戸時代初期に現在の姿になったそうです。お城の木材の多くは築城当時のものとの事、床のすき間や歩くときの軋み音に歴史が感じられます。1階では中央部分の四つの部屋と、部屋を取り囲む”武者走り”と呼ばれる通路が見れます。

扇状地である濃尾平野の扇の要に位置し、天守最上階からの眺めは見晴らしも良く絶景です。信長・秀吉・家康がそれぞれの時代に犬山城の城主は変わりますが、歴史の荒波を生き残った犬山城の天守内部には当時のつわもの達の息遣いも感じられるようです。

石垣の沿って歩く

織田信康が戦死してからは犬山城の城主が目まぐるしく変わり江戸時代に入り、1617年に徳川家の重臣 成瀬正成が城を拝領。このときお城に改良が加えられ、現在の天守の姿ができたと云われて以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。

本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に連ねて配置された犬山城は標高80mの城山に築かれた背後が断崖に守られた堅固の城です。天守の他に現存する建物はありませんが、本丸の石垣と空堀が残されているようです。

城内で見れる石垣

歴史を刻む木造建築、天守内部地階の様子や築城当時の木材も多く残されて見どころの多い犬山城です。国宝と思わせる歴史を刻んだ古木材と城内廊下や階段を歩くとミシミシと鳴る木が軋むような音、柱や床の隙間などもリアルで五感でスぺリチュアルな雰囲気も感じます。

展示される武具甲冑

天守一階の廊下をギシギシと軋み音を鳴らして歩くと、北側壁沿いに鎧甲冑が何体か展示されています。 江戸時代に城主だった成瀬家の家臣のものと思われる甲冑もありますが、私の知識識不足と説明板が少ないためか?本物なのかレプリカなのか??重要さもよくわかりませんでしたが、ただビジュアル的に戦国時代からの歴史は感じられました。

天守から望む景観

木曽川沿いにそびえる雄姿を長江沿いに建つ中国の城に例えられ、犬山城は別名で白帝城とも呼ばれるようです。望楼型の天守最上階からは絶景をご覧いただけます。周囲を確認できるよう、天守最上階を取り巻く回廊(廻り縁)があり、天気が良い日には、美しい木曽川の眺めや、御嶽山、岐阜城も?山あり川ありの展望風景が楽しめます。

アクセス

名古屋からは名鉄犬山線に乗り約30分ほどの「犬山駅」で下車、名鉄電車を利用し犬山城見学と城下町での食べ歩きも楽しめる「犬山城下町きっぷ」のお得切符もあるようです。犬山城の城下町は、築城と同時に整備されて天守とともに、戦火を逃れ、当時と変わらない町割りが残っています。通りには、古い屋敷や町屋が並び、レトロな雰囲気が残ります。建物を見ながら歩くだけでも観光気分を満喫、写真スポットでもあります。城下の東側にある庭園「有楽苑」は、織田信長の弟・有楽斎が建てた茶室「如庵」が見学できるようです。茶道の歴史を伝える重要な文化財として、国宝に指定されているようです。

播磨の小京都と鶏籠山麓の龍野城

日本の中世時代に活躍をした赤松円心の由来、子孫が受継いだ赤松氏の龍野古城は、15世紀に標高211m 鶏籠山の山頂に赤松村秀によって築城されたのが始まりとされます。西播八郡の守護代を務めた龍野赤松氏の拠点として、村秀により築城されて以降、政秀、広貞、広英と4代続きましたが、秀吉の播磨侵攻の際に開城します。開城のあとは、秀吉が入った姫路城の支城となり、後に蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政と秀吉の最も信頼する重臣たちが城主になります。

龍野城 桜咲く前の隅櫓

龍野城の歴史は、赤松村秀が最初の城主となり、この地域を治めていました。赤松氏は政秀、広貞、広英と城主になり、4代の78年続きました。敵方・赤松氏に捕えられた幼少時の軍師 黒田官兵衛、父の黒田聖隆がこの龍野城に乗り込み、取り返したとの物語も伝わります。後に赤松広秀が豊臣秀吉に降伏し、城を明け渡します。その後に豊臣政権下で龍野城主となった石川光元が1596年に山上の龍野城を破却し、鶏籠山の麓に城を移します。

龍野城埋門

明治初期に廃城となった龍野城は、古い石垣ばかりが残るだけでしたが、整備されて昭和54年に本丸御殿や多聞櫓が復元され、武家屋敷や白壁の土蔵が残ります。龍野城とその城下町の観光プランは、町並み散策と山頂に一部石垣が残る鶏籠山城と本丸御殿、二城をセットで訪れると良いと思います。


城跡には復原された櫓門形式の埋門と武家屋敷や白壁の土蔵、「播磨の小京都」とも言われる城下町は、”男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け”のロケ跡地があって童謡「赤とんぼ」の作者・三木露風の生家や、淡口醤油の資料館など観光が楽しめます。重要伝統的建造物群保存地区のレトロな雰囲気が残る町並み散策をゆったりと過ごしましょう。 

高麗門

西播八郡の守護代を務めた龍野赤松氏の拠点として、村秀により築城されて以降、政秀、広貞、広英と4代続きましたが、秀吉の播磨侵攻の際に開城します。その後は、蜂須賀正勝、福島正則ら、秀吉一門の武将が城主となります。
江戸時代になり、寛文12年(1672年)に脇坂安政が信州飯田から龍野に入部します。その際には山頂から山麓に機能が移っており、現在の位置に龍野城が整備され、明治まで使用されました。

本丸御殿

龍野城は、1672年に脇坂安政が築城。天守閣は有りませんが三方に石垣を巡らした龍野城が完成したようです。桜の時期には城内の桜の花が咲いて景観を高めて素晴らしく、復元されたは本丸御殿の中に入るのは無料、御殿見物と城壁、埋門などにふれて歴史散策をのんびりと楽しめます。

古城の標識

龍野城、もとは今の龍野城の裏にある鶏籠山の山頂に築かれていました。明応八年(1499年)に、赤松村秀が鶏籠山頂に城を築き、朝霧城と呼ばれて赤松氏四代がここを根城にします。典型的な中世の戦国・山城の龍野古城でしたが、戦乱が治まるにつれ城を山上に築くメリットが無くなり、天下平定が進む安土桃山時代頃から、城は平地に築かれるようになります。

二の丸

登城道のあちらこちらに石垣跡や削平地、帯曲輪跡らしき所が見られます。約30分ほど登り切った所に二の丸の標識が立ちます。城の中心となる本丸の外側にある城郭の二の丸は、広さが、東西に約14m、南北27mほどあるようです。城跡全体を見ると横堀や土塁、竪堀などの山城遺構が残り、戦国時代の山城の雰囲気を色濃く今も感じ取れます。

古城への石段

本丸の北東側には古城石段と名付けられた本丸へ続く石段が残り、その石段上のあがりますと本丸の石垣が今も残っています。

古城の本丸

二の丸から更に奥へ5分ほど入ると本丸跡に着きます。本丸の広さは、東西に約20m、南北に約14m程あるようです。二の丸も本丸はさほど広くなく狭いです。木々が繁っていて開けた展望とはいきませんが、木々の間から見える眺望は良いと思います。本丸裏の八幡宮跡の石畳や石段は良好な形で残っているようです。赤松氏の城としては、規模は大きくありませんが思っていた以上に遺構が残っており良かったと感じました。

アクセス

姫路からJR西日本・姫新線に乗り継ぎ、本竜野駅を下車します。改札口を出ると観光案内所がありますので資料をゲットして揖保川方向に歩き、揖保川渡る龍野橋からヒガシマル醬油工場が見えます。

城下町は昔ながら西播磨の中心的な場所だった龍野、町並み沿って揖保川が流れて風情が残ります。龍野橋を渡ると重要伝統的建造物群保存地区の町並みを抜けて龍野小学校に行くと家老門から山麓にある龍野城本丸隅櫓が見えます。鶏籠山の山頂・古城には夏場は避けましょう、山頂から下山は道迷いの可能性が有りますので目印・赤テープなど要チェックです。

忍者の郷、藤堂高虎が改修した伊賀上野城

筒井定次が築いた伊賀上野城、戦乱が過ぎ天下統一した徳川家康に従い藤堂高虎が大規模に改修する。豊臣氏を包囲する目的の伊賀上野城は、「大坂の役」で豊臣氏が滅び改修工事は中断しますが、再建され現存する木造天守です。天守には藤堂高虎の黒漆塗の兜や武具など展示品され、西国を睨む日本有数の高さを誇る高さ29.7m内堀の高石垣が有名です。

遠目に見る伊賀上野城跡

国史跡に指定される本丸跡の3層3階 天守、昭和初期の模擬天守ながら見応えのある本格的な城郭です。築城名手の藤堂高虎が築いた城は高い石垣でも有名です。豊臣家が滅亡し、天守等は作られませんでした。当時創建しようとしていた五層天守とは異なり、昭和初期に地元の政治家により木造 三層天守を残された城跡に伊賀上野文化産業城として再建、城を含めた近隣一帯は上野公園として散策が楽しめます。

高台の頂上を本丸にお城が、東寄りに三層の天守閣を建ちます。城下町は古くから開けた北側を中心としました。複合式天守の”昭和の城”は、伊賀文化産業城と名付けられ、優雅な姿から白鳳城とも呼ばれ伊賀市民の自慢のランドマークです。

まじかに見る天守

外観の白い三層の美しい城郭から「白鳳城」とも呼ばれています。三層からなる天守閣には武具・甲冑や藤堂家の遺品、横山大観をはじめ名士の色紙46点の天井絵が展示されています。最上階の天井には、横山大観などの色紙46点が飾られおり、そこから城下町一円を見下ろす眺めも格別です。

内堀と石垣が残り、高さ約30メートルと日本有数の高さを誇る内堀の石垣も必見で、映画のロケ地としても利用されたようです。また、伊賀市の郷土資料を展示。現在の三層の天守は、昭和10年に建てられますが、木造の建物内は戦国時代の雰囲気そのまま残されています。伊賀文化産業城とも呼ばれ、市の指定文化財となっています。

天守の見学

日本100名城のひとつに選ばれている伊賀上野城の天守閣内は、随所に様々な展示品があります。最上階の天井には「横山大観氏」など著名人から寄贈された1m四方の色紙に目が奪われます。1階と2階は筒井氏や藤堂高虎にまつわる展示品が見れます。

結構な高さなの石垣の上に、天守閣はさらに30mの高石垣の上にあります。高石垣の高さは日本一のようで、当時の敵側攻め手も攻めあぐねる様子が想像されます。
3階は伊賀市を一望、元が高台にあるのに高石垣でさらに高さがあるため、伊賀市内の展望は穏やかな街並みと田畑、山並みなどが素晴らしいです。窓から見る構造で廻縁がないので外には出られません。

敵側を睨む高石垣

築城当時は、大阪城の豊臣氏も健在で、戦略上の重要性が意識して築城されたらしいようです。本丸西側の石垣は黒澤明監督の映画や、TVロケ地にもなる日本一の高さの石垣は見どころです。大阪城と競う約30mの高さを誇る高石垣には手すりや柵もないので、足元に気を付けて散策を楽しんでください。石垣の上から覗くと足がすくみそうですが、お堀と石垣のバランス景観も見事なものと思います。

石垣に沿って散策

伊賀上野城がある上野公園・園内の散策は四季折々の景観が楽しめます。俳聖殿や忍者屋敷など名所・旧跡も数多くあります。標高184mほどの丘にある梯郭式平山城には多少の高低差があるので本丸に着くまでゆっくりと石垣を眺めながら歩きたいと思います。

アクセス

伊賀鉄道の忍者列車に乗ってガタゴトと揺れながら上野市駅へ向かいます。上野市駅で下車、松尾芭蕉の銅像が上野市駅前広場に建っています。駅前からお城のある上野公園入口まで徒歩10分程が目安です。天守閣近辺までは若干の坂を上がりますが、舗装された道が続きますのでゆっくり歩きたいと思います。

家康が恐れた、丹波デカンショ~の篠山城跡

篠山城の縄張りは築城名手の藤堂高虎で豊臣氏を包囲する城の一つ。築城後には大坂冬の陣や大坂夏の陣でも城主・松平康重が篠山城から大坂城攻撃に出陣し大活躍する。家康狙い通りの役割を果たしますが、山陰道を睨む要衝の篠山城は堅牢過ぎると天守閣は恐れて建てられず平山城となるも、今では日本遺産認定の日本百名城のひとつです。

二の丸御殿庭園と井戸

本丸(現在・二の丸)の構成は、大書院と小書院、中奥御殿と奥御殿、台所などの建物と築山をもつ庭園があります。儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も中心的な場所です。本丸にある井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約16mと岩盤を掘るのに2年も費やしたようです。

大書院は現存する同様の建物の中では京都二条城の二の丸御殿に匹敵する建物で、大名・武家住宅としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものでした。廃城令によって日本各地の城が破却される中、大書院は残りました。ただ残念ながら昭和19年1月に焼失しましたが、 後の平成12年4月に大書院は再建されて現在に至っています。

石垣に囲まれた御殿跡庭園と大書院

徳川家康の命により西国諸大名が動員されて築かれた篠山城大書院は、天守のない篠山城の中核をなす建物でした。 築城工期は1年たらずの突貫工事でしたが、笹山(篠山)は全体が岩盤で出来ており難工事だったようです。

堀は内堀と外堀二重に廻らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設けて防御に徹した城構えとなっています。天守閣は、家康の反対と急いだ工期で実戦向きの城に築かれてませんが、二の丸に築かれた大書院が今では、城跡のシンボルとなっています。

石垣だけの天主台

篠山城は築城当初より石垣の天守台はありましたが、天守閣は築かれませんでした。
石垣や堀をはじめとする城の造りが堅牢過ぎると幕府が心配したそうです。江戸幕府の指示により天主閣を中止し、代わりに南東隅に4m四方に単層の隅櫓を配置し、東面と南面に土塀が作られました。

築城当初は二の丸が本丸でしたが現在は南東の隅に、天守台が造られたことから殿守丸と呼ばれていました。天守台の石垣は本丸内側からの高さ、約4m、外側の南と東側犬走りからの高さが約17mで、篠山城で最も高い石垣になります。

篠山城大手口の鉄門

表門から二重桝形・中門を抜けると鉄門(kuroganemon)に、呼び名通り門扉に鉄板が張られた、二の丸へ至る最後の門跡で関門にふさわしい厳重な造りです。現在は模擬冠木門、往時は絵図によれば櫓門が設けられていたようです。普請総奉行の池田輝政が中心に、縄張りには築城の名手の藤堂高虎が手掛け、石垣造営には穴太衆が携わったようです。

鉄門に入ると木造復元された二ノ丸大書院見えます。正面の唐破風のついた玄関、瓦葺の建物は大広間で、史料館となっています。調査で分かったことは門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されて、鉄門は幅が約5m、奥行約4.5mの広さでした。東側の石垣高さが約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られました。

北廊下門跡に咲く桜

三ノ丸から二ノ丸へ内堀を渡る、かつては廊下橋だった土橋の前に「史蹟 篠山城跡」石碑が建っていますのでご参考ください。二ノ丸への土橋上から、内堀を西側を見ると二ノ丸石垣の周囲には犬走りも残ります。

桜の名所でもあってカメラスポットです。ここは二ノ丸の大手口にあたる「鉄御門虎口」跡に向かう玄関先になります。大手口から鉄門虎口までの順路は折れ曲がり、石垣の左側と右側とが異なる雰囲気が??往年の門や塀は残されていませんが、石垣だけでもこれだけの堅固さで城の風格が伝わって来るようです。

二の丸屏風折の石垣と犬走の景観

見事な石垣と内堀、犬走りに囲まれた城跡、大書院が見えます。内堀と外堀および馬出、二ノ丸内は石垣が残っています。外堀の周囲に3つ造られた馬出は東と南の2つが堀とともに現存しています。4月上旬は”さくらまつり”が催されて観光客で賑わい、篠山城跡一帯が桜で彩どられます。

中世山城の八上城(戦国大名 波多野氏)に代わる拠点で丘陵・笹山に築城された篠山城は、幕府の命で20諸侯に分担させた「天下普請」の1つ、縄張りが伊賀上野城主・藤堂高虎、奉行に姫路城主の池田輝政とそうそうたるメンバーで気合の??こもったお城です。

南門・埋門跡

段差を利用した埋門跡(uzumimon ato)、二の丸南側の門です。この付近の石垣には城内で最も多くの符号・刻印が見られます。

篠山城跡二の丸から南側にある埋門をくぐり下ると、三の丸へ通り抜けます。二の丸南側の埋門から下り、三の丸を通って五万石の城下町として栄えた河原町妻入商家群方面へ向かいます。

城下町・河原妻入商家群の入口

篠山城築城の際に造られた古い町並みで、江戸時代の佇まいを偲べます。かつては篠山の商業の中心で、約600mにわたり「妻入」という建築様式の商家が軒を連ねています。

5mから8mほどの狭い間口、奥行きは大半が40m以上と深く、表構えは、かつては大戸と千本格子や荒格子または蔀(しとみ)で構成されていたようです。中二階の窓は出格子と太い格子をしっくいで塗り込めたむしこ窓であり、さらに袖壁、うだつも見ることができます。街歩きは当時にタイムスリップした感覚、妄想の散策が楽しめます。

河原妻入商家群①

河原町を歩くと間口の狭い奥行きの深い造りをした妻入りの商家が建ち並び、歴史深さを感じられます。約600mにわたり、藩政時代の面影を残す家並みが続き、土産物屋もあって買い物をしながら、写真も撮りながらの散策を楽しめると思います。

白い壁と面白い鬼瓦が特徴の瓦屋根の商家が五百メートル以上にわたって街道に立ち並んでいます。大小の商家が街道の両側に立ち並び、商家の前の所々にはデカンショ節の唄が描かれた灯篭が立っているのも、町の良いアクセントになっていると感じました。

河原妻入商家群②

この篠山の地はまわりが山々に囲まれた盆地であって、往古より京都や山陰、山陽を結ぶ交通の要衝でした。その場所に徳川家康の命で1609年に篠山城が築城され、翌年から城下町が整備されていきます。河原町に商屋が建ち始めたのはその少しあと、1612年頃だと言われてるようです。その後多くの商屋が軒を連ねる一大商業地として栄えたようです。

アクセス…城跡近くの大正ロマン館

JR篠山口駅から神姫バスを利用、所要15分程で城北口停留所で降車します。バス停留所から徒歩5分ほどでレトロな建物の大正ロマン館があって、お土産や軽食があります。大正ロマン館からも見えますが、篠山城跡の大手口には二~三分で歩けます。

お洒落な観光案内所

大正ロマン館の道路を隔てて対面にあるのが、レトロ風でお洒落な建物の篠山観光案内所です。先ずは、ここに入って現地調査、時間に合わせて観光ルートを検討されたら良いと思います。篠山城跡の城内マップや城下町マップも無料でもらえます。

斎藤道三亡き後に岐阜城の城主になったモノは皆短命!道三の呪いか?

息子の義龍は長良川の戦いで親父・道三を葬り、稲葉山城主になるが油断で家臣の竹中重治らに調略に騙され城を奪われます。城を返還されて信長侵攻を何度も撃退するが35歳で急死。後に稲葉山城は信長によって落城、嫡男龍興は流浪後に越前朝倉滅亡へつながる刀根坂の戦いで戦死して斉藤家は3代目で滅亡。信長は道三の娘の濃姫を妻に迎え城主となり岐阜城と改名、天下布武を発布する。しかし信長の時代も短く、明智光秀の謀反で世を去る….

山頂に見える岐阜城

標高329m金華山の山頂に建つ岐阜城には金華山ロープウェーを利用すれば楽チン。難攻不落の城と知られ『美濃を制すものは天下を制す』と伝わり、戦国時代を書いた司馬遼太郎作「国盗り物語」で稲葉山城は斎藤道三の居城でした。稲葉山城の戦いで撃破した信長は、「井の口」と呼ばれていた城下町を「岐阜」に、それに伴い稲葉山城は岐阜城と名前を変えます。

稲葉山城が築城されたのは鎌倉時代の1201年、鎌倉幕府の文官・二階堂行政(鎌倉幕府の十三人の合議制にも参加)によって築かれたとか….その後の戦国時代になり斎藤道三が稲葉山城を大改修し、城下町も多くの人々行き来するように繁栄させました。

城跡二の丸門跡辺り

天守台に建つ天守閣の南西一段下辺りに二の丸が築かれ、さらに一段下に二の丸門があります。周囲を石垣で高く積みあげて守備固めされています。 関ヶ原前哨戦となった慶長5年8月の岐阜城攻略戦では、この二の丸門辺りで激戦が繰り広げました。この時、門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発、この時の火災で美濃・尾張国内に岐阜城の落城が知られ広まったようです。

難攻不落の山城と知られる岐阜城には、階段や坂道の多い登山道は整備はされていますが山登りですので、観光者で運動靴で無ければ避けたいと思います。ロープウェーなら約3分、山頂駅から徒歩10分程で岐阜城の天守に着きます。天守辺りからの眺めは良く、眼下に広がる岐阜の町並みや、天気の良い日には遠く山々が見渡せまて気持ちが良いです。

城跡一の門辺り

歴史フアンが注目する一ノ門は城郭の入り口にあたる城門で、斎藤道三が築いたようです。道三の孫を撃破し、稲葉山城を奪取した信長公は独創的な城造りでリニューアルしますが、一ノ門は義父でもある道三からの継承を想い残したようです。 城郭の防御で最も重要な城門、義父への想いあって?? 道三からの遺城門を受継いだと思われます。

大手道旧三の丸付近に復元された冠木門は、「天下」を好んだ信長公にちなんで「天下第一の門」と名付けられ、この先を少し歩けば上格子門跡があります。稲葉山城を攻め落とした織田信長公は尾張国から美濃国に移り住み、稲葉山の城郭を再建し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図ります。天下統一への野心「天下布武」の朱印を用い、岐阜城は天下統一へ踏み出す城となりました。

岐阜城の石垣

城跡遺物からは軒丸瓦や軒平瓦などが見つかり、軒丸瓦は文様の特徴が信長の家臣団の城である光秀・坂本城や 藤孝・勝龍寺城などでも見つかった軒丸瓦と類似していることから、同時期に造られたものと推測、天守台石垣が信長公時期に築かれた可能性もあるようです。

近世城郭の出発点と伝わる信長公が岐阜城の後に築城した安土城ですが、岐阜城跡には石垣のほか巨石列を用いるなど、その構築技術に近世の先駆けとも云える築城技術の要素が窺えます。岐阜城跡は日本の中世時代から近世への転換期にあたる日本史上の重要な城と言われています。

戦国時代の石垣

発掘調査では岐阜城の天守台の南西角に、縦80㎝ほど横70㎝ほどの大きさの石が2つ、新たに見つかりました。石材の詰め方などから信長公が岐阜城に入城した1567年?直後に使われたと推察されています。

天守周辺の発掘調査では、天守台の2段目の石垣が確認されています。天守台の石垣が2段で構築されていることが判明され、また2段目の石垣の裏込め11段目に石垣の基礎が兼ねており、1段目と2段目の石垣が同時に築かれた可能性が高いと推察されています。

天守から見下ろす長良川

天守の最上階は展望フロアで、回り縁になっている天守に吹きぬける風を心地よく感じます。「美濃を制する者は天下を制する」の言葉があるように、金華山の山頂から街並みを見下ろすと全てを手に入れたかのようで、織田信長公も街並みをそのように見渡していたのでしょうか。

眼下には鵜飼で有名な長良川が市内を貫流し、天気が良いと東には恵那山と木曽御岳山が見渡せます。北には乗鞍、日本アルプスが、また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系の連なりが見える展望です。日本百名城の天守展望に相応しいに景観が楽しめます。

天守に坐す織田信長公

信長公は奇襲や鉄砲を利用した戦略・戦術をはじめ、柔軟な発想や破天荒な振る舞いで多くの逸話を残します。人々を魅了し震撼させて、50年足らずの生涯を駆け抜けた戦国時代の風雲児・織田信長公が好んだ舞曲 幸若舞のひとつの敦盛がドラマにも取上げられて有名です。小国・尾張の大名から、天下統一目前にまで駆け上がりますがドラマチックに終了します。

本能寺の変に倒れた織田信長公の追善菩提に秀吉が建立した大徳寺総見院、本堂の木造織田信長公坐像と岐阜城の木造織田信長坐像のお顔が似ており、容姿は実物にかなり忠実だと推測されます。信長公の一周忌法要のために制作されたようです。

歩いて登る?

金華山には登山口が5ヶ所あり、お好みのルートから山頂まで登ることができます。どのコースも所要時間は健脚な大人の足で60分程度です。市内バスとロープウェイのセットチケットが割安かも、片道をロープウェーを利用して残りは登山道で歩くパターンも可能です。涼しい時期の天気の良い日は、ハイキング登山も選択肢と思います。

発掘調査や整備計画もあるようですが、歩いて登れば所々で表面に出ている山上エリアの史跡・石垣跡などのお宝が見れるチャンスが有るかもと感じました。

信長公と濃姫の居館

金華山麓に築かれた信長公居館跡には文様に金箔を施した瓦の破片と庭園跡が見つかっています。宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」にも居館庭園を見た後に金箔で飾られた濃姫の部屋を訪れたと記述されているようです。信長公が濃姫のために建てた金箔の御殿と推測されています。

居館跡には金箔瓦の破片は30個程見つかり、金箔御殿が建つ庭園には約36㎡程の池もあったようです。造成時期が異なる石垣があることから、当初の施工計画も変更し、濃姫に気に入ってもらえるようか、濃姫のおねだりかは分かりませんが、改修して彩り美しくされたのではと推測されています。

アクセス

岐阜城跡にはJR岐阜駅・名鉄岐阜駅前からの市内バスを利用します。JR岐阜駅からは北口に出てバス乗り場ロータリーに、チケット売り場もあります。お得なバスとロープウェイのセットチケットもチケット売り場で販売されてます。乗車からの所要は15分程で、バス降車は岐阜公園歴史博物館前です。観光者の方はJR構内に 情報収集の岐阜市観光案内所が有り、岐阜城・市内観光等の資料パンプも用意されていますのでご利用ください。

鳥取県境港、実は優しい妖怪の町でした!

ぶらりと温泉目当てに出た山陰の旅先で途中下車した境港駅、境港は妖怪の棲む町です。海沿いに広がる静かな温泉郷のある米子駅から境港へはJR境線の鬼太郎列車に乗り約45分、境港駅を降りると…何と恐ろしい妖怪がいたるところで出くわす妖怪ロードに導かれます。そう、ここは妖怪げげげの鬼太郎の生みの親、水木しげる先生の故郷なのです。

ゲゲゲの鬼太郎と目玉おやじ

JR境港駅から水木しげる記念館までの約800m続く妖怪の道が水木しげるロードです。道路沿いの所々に妖怪が177匹が待受けて、恐れを知らずに来る人を冷ややかに見つめています。最近は夜暗くなる妖怪ロードに、妖怪たちの影絵の照明が投射されたり 妖怪のライトアップがもあって妖怪たちの気配もパワーアップ、男の僕は金〇〇もチジミ上がります。

妖怪小豆洗いはロード沿いの橋に

コマ目洗い(あずきあらい)は、川でショキショキッ♪とリズミカルな音をたてながら小豆を洗う妖怪です。小豆を洗おうか、人を喰ったろうかぁなどと歌いながら音と歌声で川へと誘い、落とされてしまうこともあるそうですが、川傍で小豆の洗う音や歌声は聞こえるがその姿を見たものはおらないようで、滅多に見れる妖怪では無いのですが巷説百物語にも登場する人気の妖怪です。

ロード沿いには妖怪神社

妖怪ロードを歩き河童の泉を通り過ぎると、水木しげる先生がご神体に入魂した「妖怪神社」があります。周辺にあるのは、神仏・吉凶を司る妖怪どもや森にすむ妖怪ども(ブロンズ像)がお見えになります。妖怪の町を安全に楽しまれるのであれば、ぜひ参拝して無事に観光が終えれますようにと、パンパンと祈願しましょう。

河童の泉で水遊びする妖怪

妖怪には夏場は涼しい水遊び場

水木しげるロード途中の妖怪広場にあるのが「河童の泉」。9体の妖怪たちが寛ぐ妖怪どものオアシスになっています、小便小僧になった鬼太郎もいますよ。泉の周りに高さ3メートルの塔や切り株や小屋があり、9体の妖怪どもが思い思いにくつろいでいる、暑い日はたまに人間の子供達も水遊びを楽しんでいる妖怪オアシスです。

境港駅前で筆談中の水木先生

水木先生と筆談中の鬼太郎とねずみ男

JR境港駅前には、鬼太郎や目玉おやじ、ねずみ男が見守る「水木しげる先生執筆中」のブロンズ像境港駅から出てすぐのところに、漫画を執筆中の水木先生と、それを見守る鬼太郎とねずみ男。水木さんの表情を見る限り、かなりテンパってるので、鬼太郎達に、作品のダメ出しなんかされているんだと思います。「ハゲたら困るので、毛針の使用はほどほどに」とか「ネコ娘なんか活躍させないで、俺を使ってくれ」と駄々っ子のように言ってるようです。

境港駅は隠岐の島行き船乗り場最寄り駅

境港駅は、鳥取県境港市大正町のJR西日本・境線の海岸に面した駅です。当然に駅を走る列車は妖怪列車です。町に棲む妖怪どもは通勤・通学で鬼太郎列車を利用して通っており、妖怪列車に乗車する場合は妖怪どもと相乗りなので十分に注意が必要です。妖怪が隣に座ったら…危うき近寄らず離れることです、お菓子など与えたら駄目です。

弓ヶ浜海岸から見える伯耆大山

弓ヶ浜

海岸線にある温泉郷の皆生温泉から最寄りの砂浜を散策、海辺から見える伯耆大山は733年に出来たと伝わる「出雲風土記」に国引き神話の火神岳(ほのがみのたけ)の名で登場します。「神坐す山」に生まれた「地蔵信仰」もあって、古代書物に残る日本最古の神山で神話の世界が隣町の境港を鎮守するかのように隣接しています。

極楽橋から京大阪道を下り龍王峡遊歩道へ!

西高野街道は「与津の辻」で中高野と交わり河内長野へ、また東高野街道が河内長野「辻本の辻」で合流します。一つになった高野街道は紀見峠を越え和歌山へ、高野山真言宗 総本山金剛峯寺に向かいます。真言密教の開祖空海信仰に始まった霊場高野山へ向かう参詣は、平安末から鎌倉初期に公家が始めて開かれた参詣道です。後に高野聖の納骨や江戸時代には、一般庶民にも広まった巡礼の街道です。不動口女人堂へ一里石を求め当時の痕跡残る京大阪道と、千国橋から街道を離れてトロッコ道へ向かい九度山へ、丹生川沿い龍王峡遊歩道を歩きました。

高野山女人堂に向かう不動坂

女人堂に向かう不動坂

女人禁制時代の高野山に女性は入れないため、女人堂は巡礼女性が一晩中堂にこもり真言唱える場所でした。女人解禁後、最初に高野山永住した女性の萱野さんも苦労をされたとか、寺側とのバトル伝説もあるようです。高野山女人堂結ぶ七つ有った参詣道も、現在は女人道高野七口が唯一残る女人堂、導かれる登り口は石畳道の続く不動坂です。

京大阪道を登り切ると不動口女人堂に、霊場高野山です。南海高野線ケーブル横目に登る不動坂道中に断崖絶壁で昔の刑場だった「萬丈が嶽標柱」があり、仏の世界にも刑罰場があるのだと痛感しますね。

不動川にかかる朱色の極楽橋

標高538m極楽橋駅を降りて川沿いを少し歩くと朱色の極楽橋に、由来は擬宝珠が付く朱塗りの橋を葬列で渡ったことから、死者の極楽往生を願って付けられたようです。それ以前は不動橋でした。霊場高野山の聖域と俗世を区切る結界とされ、極楽橋がはじまりの聖地。不動口女人堂に向かわず極楽橋から京大阪道を、九度山向かって神谷集落へ下ります。

川沿いに神谷集落への標識

秘境神谷集落へ

霊場高野山に一番近い神谷集落は、大正・昭和にかけて高野山巡礼として利用された街道「長坂街道」と京大阪街道の合流地域です。小さな集落ですが、当時は宿場町として巡礼者が利用する旅館や店屋、長屋、髪結屋があって参詣客で賑わい繁盛したと云われます。

神谷集落は昭和初期まで霊場高野山詣に来る巡礼者が立ち寄れる最後の宿場町でした。巡礼客で栄え賑わった神谷集落は、一時約200人もの人が生活していたようです。現在は電車・ケーブルと車で高野山に向かう人がほとんどとなり、街道を利用して高野山まで歩く人も少なく、過疎化して秘境集落となっています。

神谷集落の町立 旧白藤小学校

高野町立 旧白藤小学校

木造建物の高野町立 旧白藤小学校は、以前に宿場町で賑わった神谷集落も過疎化のため休校となっております。多い時には生徒が100人ほど通っていたようですが、今は町のシンボルとして維持管理される旧白藤小学校は「カフェしらふじ」で営業、ドリップコーヒーの楽しめる古民家風カフェとして高野街道を歩く人の憩いの場所になっています。例年11月頃に開催予定の「ジャパンコーヒーフェスティバルin紀伊神谷駅」は、コーヒーと高野山麓の魅力をPRされてるようです。また、「ジャパンコーヒーフェスティバルin高野山とふもと」は南海高野線橋本駅から高野山駅までの間にある8駅を電車を乗り降りしコーヒーを味わって、山裾に広がる風景が楽しめるイベントも催されているようです。

神谷集落に立つ案内標識

長坂街道・槇尾道 案内標識

神谷辻に新高野街道「長坂街道」と高野山・九度山への案内標識が高野街道沿いに立ってます。険しい山間部の街道に歩き疲れて嫌になった場合は最寄り駅、標高473m「紀伊神谷駅」から帰るエスケープコースも有りますが、駅は利用客が少なく売店はありません。昭和3年に南海高野線の終着駅「神谷駅」で開業され現在に至りますが、秘境「紀伊神谷駅」として人気があるようです。

高野街道の一里石 里程標

むすびの地蔵

一里石里程標は由緒あるお地蔵さま「縁結び地蔵」のお堂前に、むすびの地蔵堂は京大坂道清水村から6つの辻に作られた最後の木造地蔵祀られているようです。弘法大師が造られたと伝えられる石像と室町時代に彫られたお地蔵さんが祀られるお社が神谷にはあるようです。神谷集落にとっての守り神であるお地蔵さまは、集落の10月の特別なお祭りの時に一日のみ扉が開かれてご開帳されるようです。

高野の仇討ち場所 作水峠の黒岩

髙野山街道の仇討ちは、MUの遺児がN一味に復讐した死闘でした。仇討は明治4年2月30日、前日に九度山町河根の中屋旅館でMU兄弟一行は仇討の相談し先回りする。作水峠の黒石で仇のN一味を待ち伏せて仇を討ちました。仇討ちの原因は文久2年師走の夜に、播州赤穂藩の執政MO主税と参政MUが自称勤王派の足軽のNらの一味13人に暗殺されたことでした。仇討ちを果たしたMU兄弟は死罪で刑務所行きでしたが、後に務めを果たして無事出所されたようです。

龍王峡遊歩道から朱色の丹生川橋梁

高野線・丹生川橋梁

長い下り坂の作水坂をおりて丹生川にかかる標高129m千国橋まで下ってくると一安心。町石道の表参道と比べ裏参道とも呼ばれる学文路から高野山へ登る高野街道を離れて、学文路には向かわず千国橋から真田幸村で有名な九度山へ向かいました。千国橋から標高94m南海高野線「九度山駅」までは急坂もなく、朱色に染まる高野線・丹生川橋梁と景観を眺めながら丹生川に沿って龍王峡遊歩道の散策を楽しみました。このコースは距離があり下り坂が続くので膝に負担がかかり侮れないと感じました、膝や腰を痛めている人はご注意です。